ジンテーゼとしての気功

もはや今の時代で、

現実を知ってるとか知らないとか
意識が高いとか高くないとか
知識があるとかないとか
右翼だとか左翼だとか
「どうせ変わらない」とか「いや、変えられる!」とか
バカだとかバカじゃないだとか

そういう系の二項対立で議論してても埒が明かないんじゃないだろうか。

それより、社会の流れを感じる中で、自分や、身近な人の「生命の危機」へのセンサーを、日々研ぎ澄ますことが必要なんじゃないだろうか。

で、すでにそういう感応力がある人が、ここ数年に起きた非常時に、早い段階で支援に行ったりと、活動していたんだなあと思う。

でも、おかしいことが続きすぎて、「おかしい!」と声を上げて何かしようとしても問題の巨大さに行き当たって、キャパシティーが超えたりして、色々あった結果、ある種の鈍化、悟らざるをえない、そんな事情を抱えざるを得なかった人も多いのではないか。

運動神経皆無の両親による、ひねくれ率高めな『教え』のシャワーを浴び続けた結果、物心ついたときから鈍化してたぼくは、気功などを通じて弱すぎる体感覚を少しずつ取り戻し、比例して過剰すぎた概念思考、ひねくれ思考が弱まっていった結果、何となく、世の中がおかしいことに気づき始めたりしてる。

二項対立的な言論手法が世に蔓延っていて、どうしても『何がしかを糾弾対象にして、糾弾する』感じの話になってしまいがちなのは、鈍化した言論人たちの影響によるものだと思う。

で、余計な偏見を持たず感応力のある人たちが持つ危機感は、二項対立的な言論手法が飛び交う昨今で、説得力持って主張するのが非常に難しく、議論で使うことができないような、間違いなく『真実』なのに、「バカにされる」ことなんじゃないだろうか。

SEALDsは鈍化してなかったし、学生として高クオリティすぎるコンテンツ作成力があったけれど、その『真実』を言い表すことに関しては、奥田愛基の本やツイッターを見てて思うけど、どうも、惜しい……あともうちょっとなのに……どうしても……かすらない……どうしても、批判されがちな文脈でもって表現してしまう……、まちがったことは言ってないのに。

個人的には、今の社会のOSを丸ごと変化させてしまいたくて、そのキーとして体感覚を取り戻すツールとしての気功(ヨガでも、ぼくのやってる平均化訓練、韓氏意拳でも)がみんなの生活に浸透し、そのことによって「社会を語ったり、社会を動かす人たち」も体感覚を研ぎ澄ますことで、豊富な知識や思考法はそのままに、体感覚だけは子ども時代に戻させるという案を思っているのだけれど、まあ、怪しいトリッキー思考としか思われそうにないですね……

とにかく、そういうことを、ぼくの鈍化した体が人との出会いやボディーワークを通じて少しずつ鋭敏さを取り戻していった体験談を交えつつ、私小説風の本にまとめたいと思い、今、書いています。

タイトルは『気弱なまま生き抜くためのテロリズム』というものになりそうです。