東野圭吾を好かない人について

 

東野圭吾を好かない人が多い。

 

好かない人の多くが、芸術玄人って感じがする。

 

その人たちと東野ファンは、本に求めるものがそもそも違うのだろう。

 

 

それか、初めて手に取った作品に原因があったのかもしれない。

ドラマ化、映画化されて有名になった作品をどうしても手に取ってしまう。それが名作とは限らないのに。

 

たとえば『流星の絆』。

物語としては『いい話』。

でも、それだけじゃ玄人は唸らない。

 

で、そういう作品に限ってドラマ化、映画化される。

そんな動きを見て、玄人は(優越感の織り混ざった)幻滅を覚えるのだろう。で、東野圭吾を自分の審美眼より一つ下の作家と見なす。

その後、東野圭吾よりは売れてないけれど、自分の感覚に合った作者の作品を観て、「売れてない作品ほど名作」みたいな感慨を覚える。

 


「売れてない作品ほど名作」

 

これは、東野圭吾にも当てはまる。

『変身』『分身』『虹を操る少年』『魔球』『時生』……etc

 

 

東野作品には『謎めき』が足りない?


また、芸術玄人は恐らく、感情のもやもやを求める。読後感の続く紐解きづらい作品を良い作品と称する。

 

東野作品は、非常に読み解きやすい。

文は読みやすく、比喩も単純明快。ストーリーはわかりやすく、登場人物のおかしな言動など作中に現れる『謎めいた何か』も、推理小説家の書く作品の特性上、作中で何かしらの形で明らかになってしまう。

 

彼の作品上の『謎めき』は、作中で解決されてしまう。


だから、つまらないと言われるのだろうか?

 


東野圭吾が作品で提示するのは『感情の謎めき』じゃない。

『社会構造に立ち現れる謎めき』だ。

 

たとえば、先ほど「売れてないけど名作」枠に挙げた『分身』は、現代社会において十分実現可能である、クローン人間の話である。

 

実際にクローン人間として産まれた2人の若い女の人を主人公に据え、彼女らの周りにいる、クローン技術を実行した人や、彼女らそれぞれの"親"の動きなどを描く。

東野圭吾ストーリーテリングは天下一品なので、読者はその展開にぐいぐい引き込まれる。

その過程で、科学の掟破りみたいな形で【生まれてしまった】(生まれてしまった…?)主人公2人の悩みを追体験することになる。

 

話はどんどん展開し、2人を巡るあらゆる構造が動いた結果、会ってはならないとされた2人の距離が近づいて……(興味が出たら読んでください)。

 


東野圭吾は、人の感性の動きも重んじているが、それと同じくらい、現実性や理論を重んじている。

また、これからの社会の動きや、その果てに訪れ得る"未来"を視野に入れた話を創る。

少なくともぼくが好きな東野作品は、そういうものであり、それこそ彼の真骨頂だと思っている。

 

 

東野圭吾は、常に現実と闘っている。

彼は、ぼくらを管理し、恩恵と混沌をもたらす『社会のシステム』と、その中で生きる人間とのせめぎ合いを書く。

 

「人は、システムとどう向き合うか」を常に論点としている。

 

そして、

・人はどうシステムを受け入れるか

・その上でどう生きていくか

を真剣に考え、それを登場人物とストーリー展開に託し、間接的に読者に問いかける。

 

その上で、彼が作中で出す答えは、少々ストイックすぎることもある。

 


東野圭吾も、芸術も、ぼくは好きだ。

 
人は、何かの尺度で分類できるような物ではない。有機物であり、システムと根本的に相容れない。本来、システムに沿って生きていけない存在である。

 

人はシステムとせめぎ合いながら、自然を保とうと心に様々な反応を起こす。

結果、システムと全くそぐわない、『狂気』と呼ばれる感情も、必ず出てしまう。

 

システムは、その感情を『出てきてはいけないもの』とし、否定するだろう。

 

 

でも、感情を否定し切ることなんてできない。

 

たとえ道理に合ってなかろうが、その存在を認める必要がある。

 

 

そういうとき、芸術が力を発揮するだろう。

 

 


あらゆる『人としての在り方』を肯定してくれるのが、芸術なのかなあ、なんて思う。