競争に勝つことは、生きづらくなる

 

競争社会を勝ち抜くことは、新たなる生きづらさを己にプラスしていく行為に他ならない気がする。

どんどんどんどん、背負い、どんどんどんどん、生きづらくする。
『競争社会を勝ち抜いた先に見える、輝かしい未来』は、新たなる生きづらさの象徴で、ストレスの悪化である。

「何がしたかったんだろう……」
そう思う暇すら与えられず、次から次へと役割が与えられる。役割をこなすため努力する。たとえ会社の社長になったとして、結局、自分は世界を取り巻く『システム』に仕えているんだと、思わざるをえない。

体調は悪化する。システムの要求する努力は、人を不自然にさせる。
動物としての自分自身を狂わす、不自然な努力を己に課さざるをえない状況に身を置かれる。


システムは、改善可能であると、ぼくは思っている。
もう少し、動物らしい生活を送れるよう、深い意味での束縛を解除しよう。

 

競争社会への反抗すら、新たなる生きづらさへの第一歩となりうる。

怒りを燃やしても、怒りによって出た理想への推進にストレスをかけざるをえない。


システムに従うとも、反抗するとも違う、中庸なあり方を目指そう。

システム内にいるんだから、ストレスが溜まったり、増えたりするのは当たり前かもしれない。
しかし、当たり前ではないかもしれない。

意外と、どうにでもなるかもしれない。

結局、信じられるのは、体の反応だけ。

 

ジンテーゼとしての気功

もはや今の時代で、

現実を知ってるとか知らないとか
意識が高いとか高くないとか
知識があるとかないとか
右翼だとか左翼だとか
「どうせ変わらない」とか「いや、変えられる!」とか
バカだとかバカじゃないだとか

そういう系の二項対立で議論してても埒が明かないんじゃないだろうか。

それより、社会の流れを感じる中で、自分や、身近な人の「生命の危機」へのセンサーを、日々研ぎ澄ますことが必要なんじゃないだろうか。

で、すでにそういう感応力がある人が、ここ数年に起きた非常時に、早い段階で支援に行ったりと、活動していたんだなあと思う。

でも、おかしいことが続きすぎて、「おかしい!」と声を上げて何かしようとしても問題の巨大さに行き当たって、キャパシティーが超えたりして、色々あった結果、ある種の鈍化、悟らざるをえない、そんな事情を抱えざるを得なかった人も多いのではないか。

運動神経皆無の両親による、ひねくれ率高めな『教え』のシャワーを浴び続けた結果、物心ついたときから鈍化してたぼくは、気功などを通じて弱すぎる体感覚を少しずつ取り戻し、比例して過剰すぎた概念思考、ひねくれ思考が弱まっていった結果、何となく、世の中がおかしいことに気づき始めたりしてる。

二項対立的な言論手法が世に蔓延っていて、どうしても『何がしかを糾弾対象にして、糾弾する』感じの話になってしまいがちなのは、鈍化した言論人たちの影響によるものだと思う。

で、余計な偏見を持たず感応力のある人たちが持つ危機感は、二項対立的な言論手法が飛び交う昨今で、説得力持って主張するのが非常に難しく、議論で使うことができないような、間違いなく『真実』なのに、「バカにされる」ことなんじゃないだろうか。

SEALDsは鈍化してなかったし、学生として高クオリティすぎるコンテンツ作成力があったけれど、その『真実』を言い表すことに関しては、奥田愛基の本やツイッターを見てて思うけど、どうも、惜しい……あともうちょっとなのに……どうしても……かすらない……どうしても、批判されがちな文脈でもって表現してしまう……、まちがったことは言ってないのに。

個人的には、今の社会のOSを丸ごと変化させてしまいたくて、そのキーとして体感覚を取り戻すツールとしての気功(ヨガでも、ぼくのやってる平均化訓練、韓氏意拳でも)がみんなの生活に浸透し、そのことによって「社会を語ったり、社会を動かす人たち」も体感覚を研ぎ澄ますことで、豊富な知識や思考法はそのままに、体感覚だけは子ども時代に戻させるという案を思っているのだけれど、まあ、怪しいトリッキー思考としか思われそうにないですね……

とにかく、そういうことを、ぼくの鈍化した体が人との出会いやボディーワークを通じて少しずつ鋭敏さを取り戻していった体験談を交えつつ、私小説風の本にまとめたいと思い、今、書いています。

タイトルは『気弱なまま生き抜くためのテロリズム』というものになりそうです。

「病んでる」って何だろう?

「病んでる」ってなんだろう。


本来自然界に存在しなかった『概念』を、自他を判断するときの定規として使いつつ生きている時点で、生き物として病んでいるのかもしれない。

 

 

社会システムの中で生きている人は『人間』で、
社会システムも含めた自然界で生きている人は『生き物』なのだろう。

 

...

社会システムに置いて行かれないように心の安定を犠牲にすることは、自分の中の、システムに相容れない部分を否定することにもつながる。

 

何だかまとまらなくなったけど、下は、ホームレス研究家や新政府内閣総理大臣を経由して、今は小説の執筆に力を注ぐ『建てない建築家』、坂口恭平氏のツイート。

 

こういう訳がわからないけれどパワフルな(かつ、本質に迫る)活動をしている人がいるとわかるだけで、定規を当てられる辛さから少し解放される気がする。

 

 

 

 

東野圭吾を好かない人について

 

東野圭吾を好かない人が多い。

 

好かない人の多くが、芸術玄人って感じがする。

 

その人たちと東野ファンは、本に求めるものがそもそも違うのだろう。

 

 

それか、初めて手に取った作品に原因があったのかもしれない。

ドラマ化、映画化されて有名になった作品をどうしても手に取ってしまう。それが名作とは限らないのに。

 

たとえば『流星の絆』。

物語としては『いい話』。

でも、それだけじゃ玄人は唸らない。

 

で、そういう作品に限ってドラマ化、映画化される。

そんな動きを見て、玄人は(優越感の織り混ざった)幻滅を覚えるのだろう。で、東野圭吾を自分の審美眼より一つ下の作家と見なす。

その後、東野圭吾よりは売れてないけれど、自分の感覚に合った作者の作品を観て、「売れてない作品ほど名作」みたいな感慨を覚える。

 


「売れてない作品ほど名作」

 

これは、東野圭吾にも当てはまる。

『変身』『分身』『虹を操る少年』『魔球』『時生』……etc

 

 

東野作品には『謎めき』が足りない?


また、芸術玄人は恐らく、感情のもやもやを求める。読後感の続く紐解きづらい作品を良い作品と称する。

 

東野作品は、非常に読み解きやすい。

文は読みやすく、比喩も単純明快。ストーリーはわかりやすく、登場人物のおかしな言動など作中に現れる『謎めいた何か』も、推理小説家の書く作品の特性上、作中で何かしらの形で明らかになってしまう。

 

彼の作品上の『謎めき』は、作中で解決されてしまう。


だから、つまらないと言われるのだろうか?

 


東野圭吾が作品で提示するのは『感情の謎めき』じゃない。

『社会構造に立ち現れる謎めき』だ。

 

たとえば、先ほど「売れてないけど名作」枠に挙げた『分身』は、現代社会において十分実現可能である、クローン人間の話である。

 

実際にクローン人間として産まれた2人の若い女の人を主人公に据え、彼女らの周りにいる、クローン技術を実行した人や、彼女らそれぞれの"親"の動きなどを描く。

東野圭吾ストーリーテリングは天下一品なので、読者はその展開にぐいぐい引き込まれる。

その過程で、科学の掟破りみたいな形で【生まれてしまった】(生まれてしまった…?)主人公2人の悩みを追体験することになる。

 

話はどんどん展開し、2人を巡るあらゆる構造が動いた結果、会ってはならないとされた2人の距離が近づいて……(興味が出たら読んでください)。

 


東野圭吾は、人の感性の動きも重んじているが、それと同じくらい、現実性や理論を重んじている。

また、これからの社会の動きや、その果てに訪れ得る"未来"を視野に入れた話を創る。

少なくともぼくが好きな東野作品は、そういうものであり、それこそ彼の真骨頂だと思っている。

 

 

東野圭吾は、常に現実と闘っている。

彼は、ぼくらを管理し、恩恵と混沌をもたらす『社会のシステム』と、その中で生きる人間とのせめぎ合いを書く。

 

「人は、システムとどう向き合うか」を常に論点としている。

 

そして、

・人はどうシステムを受け入れるか

・その上でどう生きていくか

を真剣に考え、それを登場人物とストーリー展開に託し、間接的に読者に問いかける。

 

その上で、彼が作中で出す答えは、少々ストイックすぎることもある。

 


東野圭吾も、芸術も、ぼくは好きだ。

 
人は、何かの尺度で分類できるような物ではない。有機物であり、システムと根本的に相容れない。本来、システムに沿って生きていけない存在である。

 

人はシステムとせめぎ合いながら、自然を保とうと心に様々な反応を起こす。

結果、システムと全くそぐわない、『狂気』と呼ばれる感情も、必ず出てしまう。

 

システムは、その感情を『出てきてはいけないもの』とし、否定するだろう。

 

 

でも、感情を否定し切ることなんてできない。

 

たとえ道理に合ってなかろうが、その存在を認める必要がある。

 

 

そういうとき、芸術が力を発揮するだろう。

 

 


あらゆる『人としての在り方』を肯定してくれるのが、芸術なのかなあ、なんて思う。

 

 

『考えすぎること』を止めない人生

「考えすぎるな」「あんまり深く考えるなよ」という言葉がある。


思い詰めて苦しんだりしている人を慰める言葉であるが、そう言われてすぐさま『考えすぎないようになる』人なんているんだろうか。


僕は、深く考えることを止めることができなかった。考えすぎることで悩みは増え、精神に支障が出ることはよく知っていた。だけどその時の僕は、考えすぎざるをえなかったのだ。


この文章書いている今だって、僕は考えすぎてストレスのせいか動悸が出ている。でも、それくらい考えたいことを徹底的に考えている現在の状況が、結構楽しくもある。


そもそも『考えすぎる』の【すぎる】は、どのような指標によって定義されているのだろうか。
どれくらい考えたら『すぎてしまって』いて、どれくらい考えることを留めたら、ちょうどいい『考える』になるのだろうか。


そんな指標は、人間社会において正式に決まっていないらしい。意見は人によってまちまちだ。


というか考えてみるとわかるが、この宇宙において、元来『考えすぎる』なんて言う概念は存在しないのだ。


『考えすぎる』と言う概念は、そもそも自然界にない。
『考えすぎる』と言う概念は、人類の共有する妄想であると言える。
つまり、言うなれば、『すぎる』とか『すぎない』とか言う判断基準はその人自身の中にしか存在しない、ただの妄想でしかない。


なぜ、考えすぎるのか。
それは、その人自身が考えすぎることを求めているからだ。


誰だって考えたくないことについては考えない。
だけれど、どうしても考えたくなってしまうこともある。


心に引っかかっているから、考えてしまうのだ。
逆に言うと他のことに集中して気をそらしたりすることで、考えることをストップしてしまうのは、また考えることを再開しない限り、たまたま起きる偶然によって消失するまで、それは心に引っかかったままだ。


あまりにも考えすぎてヤバくなったら、意識をそらしたり体を動かしたりして、心と体をリセットすればいい。


でも、時を置いても気になってしまうのなら、もう、考えてしまえばいい。向き合ってしまえばいい(もちろん、無理は絶対してはいけない)。


心にいろんなものが引っかかったままでも、棺桶に入ってしまえばそんなのは関係なくなる。
でも、考えることに突き進むことで、日々抱えている後悔が少なくなるかもしれない。


考えることで悩みが減るとは限らないが、悩みの質は変わるだろう。
僕は変わった。それまで悩んでいたことをあまり悩まなくなり、また違う悩みが生まれた。それは、悩みのループを回っている感覚ではなく、新たな境地に至れたみたいな感じだ。


僕はこれを、勝手に『成長』と呼んでいる。


悩むことは、いいことだ。
悩めることは、才能だ。
この性質に自信を持って、ぼくはこれからも悩み続ける。

 

『海辺のカフカ』は、読者に何も強制しない、優れた文章だ

今日も『海辺のカフカ』を少し読み返して、すごいと思った。

過去にぼくが引きこもって、自分と周りを傷つけまくっていたとき、この作品を読んで全く知らない世界を感じさせられたのを思い出す。

読み手の感覚に、何一つ強制感を与えさせない、洗練された瞑想にすーっと入らせる特殊な文体……。

傷つける行為は、『強制させる行為』だと言える。

傷つけられた報復として傷を負わせようとするのは、強制させる行為の連鎖だ。

海辺のカフカ』の文体には、そもそも強制がない。

「いいかい、戦いを終わらせるための戦いというものはどこにもないんだよ」と、カラスと呼ばれる少年は言う。
「戦いは、戦い自体の中で成長していく。それは暴力によって流された血をすすり、暴力によって傷ついた肉をかじって育っていくんだ。戦いというのは一種の完全生物なんだ。君はそのことを知らなくちゃならない」
(下巻 P.348)

SEALDsは次のステージへ行くべきだ

正直、SEALDsの今の怒りを伴った活動の様子は、更に進化することが可能だし、進化するべきだと思う。

怒りは、対立しようとしてるから湧き上がる生理現象だと思う。

対立しようとする行為そのものが、『世直し』という目的を達成しようとすることにおいてある意味遠回りで、根本的な矛盾をはらむ行為だとぼくは思う。

声を上げるのはえらいし、ぼくは尊敬してる。

しかし過去の拡声器を持った人たちは、今みたいに世の中の「わきまえているが、結局は何にもならない人たち」からたくさんの非難を浴びて、殺されたり、活動を滅ぼされたり、人格を潰されていったように思う。

奥田愛基にはそんな風になってほしくない。

あんな風に具体的なアクションを起こして、硬直した世間に対して確かに影響を及ぼすことができるSEALDsは、とっても頭のいい人たちであることは疑いない。

しかし、今みたいに「すでにある風潮に対してアタックする」という行為は、同じく自らもアタックされてしまい、結局どちらが真に正しいかどうか誰にもわからないという、にっちもさっちも行かない途方もない結果を招きがちである。

周囲のアタックや先人の意志、意見、コンプレックスに惑わされないで、もっと深く潜って考える方向へシフトしてほしいと思う。

すでにSEALDsは、一定の成果を上げたと思う。
だから、SEALDsは今までみたく血気盛んな感じを維持する必要はないのではないか?

興奮しないで、瞑想してほしい。

そして、世間に蔓延する、「人々が当たり前だと信じて疑わないが、これこそが今の凄まじい社会問題を産んでいる認識」を見つけ、そこを的確に、しかし穏やかに突くことをしてほしい。